ことしの本大賞『宇宙と宇宙をつなぐ数学』読了しました。
先日ニュースになった、八重洲ブックセンター「ことしの本大賞」に選ばれた加藤文元先生の【宇宙と宇宙をつなぐ数学】を読了しました。
なんでも、同賞は小説やノンフィクションが選ばれることが多いようで、その中で数学の解説書が受賞するのは極めて異例とのこと。
この本は、大まかにいえば「宇宙際タイヒミュラー(ICU)理論」という理論の解説書で、その理論自体は超難解なのですが、本書では、その考え方の根底にある数学的な思想に多くのページが割かれています。
そのため、理論自体は理解できなくても、この理論のどこが優れていて、何を目指しているのか、といった背景がありありと伝わってきます。
また、本の中で度々現れる著者の数学感は、数学に縁が遠い人にも届く部分が多くあるとのでは、と思います。
【数学が得意な人は、もちろんロジック(論理)に強いのですが、ひらめきや直観による総合的把握の能力にも優れている】
という箇所は、私自身もよく伝えていることだったので、嬉しい気持ちになったり、
【数学では、未知のことやまだ実現されていないことを、すでに知っている、あるいは実際に起こっていることを参考に、それを真似ることで理解したり、実現する】
という下りは、数学の行為でありながら、どんな世界でも共通することで、数学力と一般的な能力の共通部分であることを認識したり。
「数学をする」ということがどういうことなのか、その像がぼんやりと感じられる本だと思います。(最後の章はかなり難解ですが…)
数学が好きな人はもちろん、数学を好きになりたい(そして読書が好きな)人にとって、最高の本だと思います。
「美術と数学」に共通する本質
先日、美術に詳しい方とお話しする機会がありました。
その中で、次のような会話がありました。
「私は、美術は勉強してきましたが、数学は全然ダメでした…笑」
「先生は数学をされていますが、美術にご関心はおありですか?」
その方はきっと、「美術と数学は遠くかけ離れたもの」「美術と数学は対極にあるもの」のようなイメージを持たれていたのでしょう。
私は絵の鑑賞は好きで、美術館にもたまに行ったりするのですが、正直言って、美術に関する造詣は全くありません。
それをお断りしたうえで、次のようにお答えしました。
「私も美術は好きです。そして、美術と数学ってかなり似ていると思います」と。
すると、その方は少し驚いた様子でしたが、その後に続き、私は次のようなニュアンスをことを話しました。
美術も数学も、ある一つの(あるいは複数の)ことを表現するという意味では同じだと思うんです。違うのは表現の仕方やその方法であって、片方は、数字・記号・言葉を使って論理を築いていくのに対し、もう一方は、絵具や筆、キャンバスを使って、視覚的な完成物をつくります。
そしてそこには、その人自身の個性や考え方、こだわりみたいなものが色濃く表れてきます。
つまり、「自己の表現」という意味では数学も美術も共通していて、違うのはやり方や使うものだけなのではないか、というのが私の感覚です。
以前に記事『「文系と理系」「右脳と左脳」について』でも似たようなことを書きましたが、「数学=ロジック」「美術=感性」というような完全に分離した、相反するものではないと思うのです。
すなわち、数学でもイマジネーションや感性は重要ですし、おそらく美術でもロジック的なもの(つまり、絵を描くときは、こういった順番でこういう方法で描いた方がきれいに描ける、といったこと)はおそらく存在するでしょう。
数学と美術というのは、一見正反対なもののようでありながら、実は扱う本質は同じで、ただ単にその見る角度が違うだけなのではないか、というのが私の考えです。
これは仮説ですが、例えば普段から絵を描いている人が数学を学ぶ(あるいは数学的な思考に慣れる)ことで、自分の作品に何かしらの影響を与えることができるのではないか?仮に数学と美術で共通する本質があるのなら、数学的な感覚を養うことでより本質に近づき、そのことによって美術的な方向にもその「本質」が反映されるのではないか?
そしてもしそれが正しければ、対象は美術だけに留まりません。
例えば、料理でもいいですし、何かしらのスポーツでもいいでしょう。音楽でもいいですし、それ以外でも自分が打ち込んでいる趣味があれば、それをイメージしても良いかもしれません。
その中には必ず「数学的本質」の要素が、多かれ少なかれ含まれているのではないだろうか、そんな風に思うのです。そして、数学を学ぶことによって、自身の普段の活動の中に新たな発見を得ることは、十分にあるのではと思います。
「数学は自分の生活や世界には全く関係のない、完全に自分の「外」にあるもの」という考え方は、せっかくこの世に「数学」という素晴らしい財産が存在しながら、それを見過ごしているわけで、とってももったいないことだと思うのです。
数学というものにずっと携わってきた私だからこそ、自分がその中で恩恵として得てきた感覚を、その価値を、何とかして多くの方に伝え、そして同じ感覚を少しでも共有できれば…。
このブログは、まだまだ続きます。
数学を学ぶとはどういうことか
『数学を学ぶことによって、ビジネスや実生活の中で、具体的にどんなプラスの効果があるのか?』
『大人になった我々が再び数学を経験することは、自分たちにどんなベネフィットをもたらしてくれるのか?』
ほとんどの人にとって、数学とは、「10代の半ばで終わったもの」か「大学受験以降はすっかり忘れ去られたもの」であると思います。
そんな中、今ふたたび数学を学ぶことの意義は一体どこにあるのか?
当ブログの最大のテーマが、ここにあります。
私は普段、医学部合格を目指す受験生に数学マンツーマン指導をする一方、大人向けに数学を楽しむコミュニティを主宰しています。
きっかけは、初対面の人に私が数学を仕事にしていることを言うと、かなりの確率でネガティブな言葉が返ってきていたからです。(まあ、実際それは納得できる状況ではあるのですが…)
私は、数学を生業にしているひとりの身として、なるべく多くの大人の方に次のように感じてもらえたらと思ってこの活動をしています。
「昔は挫折してしまった、そして嫌いだった数学を、少しでも好きになってもらいたい。そして、かつての数学に対するネガティブな感情を少しでも和らげることで、僅かではあっても確実な自信を生み、より多くのことにチャレンジできるきっかけにしてもらえたら…」
それが、私が「おとな数学」を始め、また今まで続けてきた根底にある想いです。
またそれに関連し、2019年2月、すばる舎より『もう一度解いてみる 入試数学』という、大人向けの数学本も出版させていただきました。
ただ、活動を続けるにしたがい、私の中で新たなモヤモヤが生まれてきました。
「数学を楽しむことや好きになることは確かに大事だけど、それだけだと曖昧さが残ってしまう。数学を学習することが、実際目に見える形でどんなプラスの効果を我々にもたらしてくれるのか?」
それがつまり、冒頭の言葉になるわけです。
数学の話をすると、よく揶揄される言葉があります。
「sin、cos、tanって、実際の生活で全然使わないよね~(笑)」
それに対し、私の答えはこうです。
「本当に大事なのはsin、cos、tanなのではなく、sin、cos、tanを使って考える過程が大事なんだ」と。
(一応お断りしておきますが、工学系・理学系の仕事をされている方は、実際業務上で使っています。当然ですが、念のために…)
つまり、sin、cos、tanは単なる思考するための道具であって、数学を学ぶことの本質は、その道具を使いこなせるようになるまでの、その過程にあるのです。
言い換えると、sin、cos、tanだろうが別のものであろうが、何であっても、あらゆる思考ツールを自由に使いこなせる状態を目指す訓練、それが10代で数学を学ぶことの本当の意味だと私は思うのです。
そしてもちろん、その訓練は10代だから大事であるだけでなく、我々大人にとっても全く同等か、もしかしたらそれ以上に重要になってくると思うのです。
数学によって鍛えられる力には、論理力・思考力・想像力・推測力・論証力があります。
これらって、よく考えてみると、どれもビジネスをする上でも重要なものばかりではありませんか?
できるビジネスパーソンは、皆これらの能力を持っていそうではありませんか?
もちろん、ビジネスではこれ以外にも大事な能力はあります。
たとえば行動力は大事でしょう。どれだけ論理的に優れた計画であっても、実際に行動に移さないことには全く意味がありません。
また、意志力や最後までやり抜く力も重要でしょう。どんなに論理的に優れた人物であったとしても、小さな挫折ですぐ諦めてしまうようでは、ビジネスでの成功は見込めません。
これらの力は、もしかしたら数学でカバーできる範疇にないのかもしれません。
ただだからといって、そのことが、数学によって養われる力がビジネスで何に立たないことの説明には全くなりません。
数学が苦手だった人の「数学なんて勉強しても無駄だよ」という言葉には、おそらく説得力はあまり感じられないでしょう。
「数学の勉強には必ず意味がある」
これが私の変わらぬスタンスです。
再び、次の冒頭の言葉に戻ります。
『数学を学ぶことによって、ビジネスや実生活の中で、具体的にどんなプラスの効果があるのか?』
『大人になった我々が再び数学を経験することは、自分たちにどんなベネフィットをもたらしてくれるのか?』
その答えは、きっと私の中にあるはずです。
ただ、まだ十分に表出化・言語化できていないのが実情です。
このブログを通じて、より「具体的な」ベネフィットをあぶり出していきたいと思います。
どうぞお付き合いいただけたら幸いです。
数学が嫌いになる理由
私の一貫した考えは、「数学は楽しいもの」だということです。
数学はある種の、”パズル”です。
パズルを嫌いっていう人は、あまり聞いたことがありませんよね?
でも、一見同じようなものである数学は、かなり多くの人が「嫌い」と答えます。
一体なぜでしょうか?
今回は、そのことについて考えてみたいと思います。
そこには、数学(学校教育数学)が持つ3つの大きな特徴があると考えています。
【1】やらされる数学、必要に迫られる数学
ほぼ全ての人が、「数学」を経験してきたはずです。
義務教育で中学校の教育を受けたとき、間違いなく「数学」をやったはずです。
では、なぜ数学をしていたのでしょうか?
答えは、「ならないといけない」からです。
義務教育とはそういうものです。
つまり、好むと好まざるとにかかわらず、数学を勉強しないと「いけない」のです。
自ら進んで数学を勉強できた人はラッキーですが、残念ながら中にはそうでない人もいます。
しかも、学校でやる数学には点数がついて、順位がついて(場合によっては公表され)、成績がついて、模試を受ければ偏差値を知らされ、過酷な受験勉強では合格のために苦労の中で数学をやらざるを得ません。
人は、自ら進んでやることには喜びを覚え、やらされている(と感じる)場合には悪感情を抱きます。
もちろん、そんな中で数学の力を伸ばしていった人も多くいると思います。
ただ残念ながら、数学の犠牲者になった人は、それ以上の数いるのが現状だと思います。
数学を嫌いになるひとつの背景には、こういった要因が潜んでいるのでしょう。
【2】数学は積み重ねの学問
数学という学問は、積み重ねの上に成り立ちます。
四則計算がわからなければ、当然方程式を解くことはできませんし、関数の概念を知らなければ、放物線の問題を解くことはできません。(もしかしたら、「表面上」は解けるかもしれませんが…)
つまり、あるどこかの時点で運悪くつまずいてしまったら、そこを克服しないかぎり、その先に習うことはチンプンカンプンになってしまうわけです。
なんて恐ろしいことでしょう…!!
わからないことを残してしまうと、その先はどんどんわからなくなってしまい、当然わからないことは面白くないわけで、結果数学が「嫌い」になってしまうというわけです。
とっても悲しいお話しです。
「それ、私だわ…」と思ったあなた。
救いの方法は2つあります。
ひとつは、「学び直す中学数学」のような本を読んで、わからないところをリストアップしてみてください。(「忘れている」ところではなく、「わからなかった」ところです)
「すべてわからない」ということはおそらくないはずです。「わかる」ものと「わからない」ものに分類できるはずです。
そして、リストの「わからない」項目を見ることで、過去にどこでつまずいてしまったか、だいたいの範囲がわかります。
そして10代前半よりも、多くの社会経験を積んだ今の方が、きっと理解する力はあるはずです。ですので、頑張って「わからなかった」ところをわかるまで読み込んでみてください。
きっと道は開かれていくはずです。
もうひとつは、数学的な予備知識がほとんどなくても楽しめる厳選された問題と、初心者にもわかりやすく丁寧に書かれた解説に触れることです。
そんなものどこにあるのか?
ここにあります。
(↑私の本です。笑)
【3】数学は誰から教わるかで、理解度や興味が大きく違ってくる
あたりまえですが、数学は、数字と記号と文字で表現されます。
見た目は誰が見ても同じです。
印刷された活字が、人によってその形そのものが違って見える、ということはありません。
ただし、それをどう解釈するか、どう説明するかは、人によって大きく異なります。
それがまさしく、その人の数学の力です。
数学教師は、その表面だけをなぞるという教え方もできます。
あるいは、その奥深くまで入り込み、壮大に魅力的に表現することもできます。
つまり、教科書に書いてあることを誰が伝えるかによって、受取り側の数学に対する興味や印象は大きく変わってくるはずです。
数学は本来、知的好奇心を満たすエキサイティングなものであるはずです。
10代の頃に(もちろんそれ以降でも全く遅くはありません)に、どれだけ数学の魅力を感じられたか。それによって数学に対するスタンスは180°変わってくるのではないでしょうか?
以上、3つの要因をあげてみました。
これが、「なぜ数学が嫌いな人がこんなに多いのか」という問いに対する私の答えです。
そして、もし少しでも数学を好きになりたいという気持ちがあれば、そこに向かうために最初に大事なのは、「なぜ自分は数学が好きではないのか」、その理由を知ることです。
ここで上げた3つの要因のうち、いくつかはあなたにも当てはまるものがあったのではないでしょうか?
「なるほど。だから嫌いだったんだ」と思えれば、しめたものです。
原因を知れば(そして、その原因が些細なものだったと感じることができれば)、その呪縛を解くのはたやすいことのはずです。
さあ、なんとなく数学を好きになれそうな気がしてきませんか?
そのまま、進んでみましょう!
「しあわせになる数学」とは…
当ブログのタイトルは、【しあわせになる数学】です。
本当に数学は人を「しあわせ」にしてくれるのか?
たぶん、答えはYESです。
「たぶん」というのは、「数学」と「しあわせ」の直接的なつながりの根拠が、まだ私の中で明確に確立されていないからです。
もしかしたら、いつまで経っても見つからないかもしれない。
でもその探す過程は、間違いなく価値のあるものになるだろう、という確信はあります。
このブログは、ある意味その壮大な実験でもあるわけです。
まだ途上です。というか、本格的なスタートは、今始まったばかりです。
数学を仕事にしているひとりとして、自分の仕事道具で人のしあわせを実現できるのなら、これ以上の喜びがどこにあるというのでしょう?
そして、先にも少し触れた通り、それは可能だと思っています。
人間は、思考することで文化を発展させてきました。そして、豊かな世界を築き上げてきました。
思考自体が数学そのものです。数学とは、論理の積み重ねで構築された体系のことです。
また数学は思考という世界だけに留まらず、実際に数々の文明の利器を、目に見える形で生み出してきました。数学とは、考えることであり、実現させることです。
そして、AIに代表されるように、今後数学の重要性はますます高まっていくでしょう。
ここでひとつの大きな壁に当たります。
文明の発展や化学技術の進歩によって実現されたこの世界は、本当に我々にとって「しあわせ」なものであるのかどうか?
という点です。
これは難しい問題です。
産業の発展によって、環境は侵されてきました。
科学技術により、戦争の破壊性はより強大になっています。
もしかしたら、文明などない原始の世界の方が「しあわせ」だったのではないか?
そういう疑問が湧き上がってくるのも自然です。
ただそんなふうに考えてしまっては、議論に収拾がつかなくなるので、ここでは前提を設定したいと思います。
そもそもの混乱の原因は、人によって「しあわせ」の定義が違うことです。
最新技術に囲まれた刺激たっぷりの世界を「しあわせ」と呼ぶ人もいれば、自然に囲まれたのどかな自給自足の生活を「しあわせ」と呼ぶ人もいるわけで、この2人が「しあわせ」について語っても(それはそれで興味深いことではありますが)着地点は見えなさそうです。
つまり、人によって「しあわせ」の捉え方は千差万別なわけです。
そこで、このブログにとっての「しあわせ」を定義しないことには、「数学」で「しあわせ」になれるかどうかの話を進めることができません。
当たり前の話です。ゴールがあいまいなのに、そこに向かうことはできません。
というわけで、ここでは「しあわせ」を、次のように定義したいと思います。
【自分が望む自分自身や世界を実現できている状態】
ここで初めて、このブログのテーマ「しあわせになる数学」の方向性が決まります。
それはつまり、「数学によって、自分が望む自分自身や世界を実現する」ことです。
そして、普段数学をしている端くれとして、それは可能である、というのが私の仮説です。
そして、その探求の過程が、このブログだというわけです。
私自身も、今後のこのブログの発展がどうなるのか楽しみです。
ぜひご一緒しましょう。
「文系と理系」「右脳と左脳」と数学について
よく「文系 or 理系」と分類されることがあります。
大学では学部が分かれており、その学部で主に学ぶ対象学問の違いによって、入学試験で問われる科目が異なってくるためです。
一般的に、国語・社会を文系科目、数学・理科を理系科目、と分類されることが多いでしょう。
多く聞かれるのが、「数学が苦手だから文系に進んだ」というケースで、
またまれですが、「国語が苦手だから理系に進んだ」という人もいたりします。
また似たような話題として、「左脳 or 右脳」が取り上げられることもあります。
一般的な解釈では、
左脳 → 言語、構造、ロジック
右脳 → 感情、感覚、イメージ
と対応づけされることが多いでしょう。
数学は、数字や記号を使うことが多いのは確かですが、その根底にあるものは、言語体系です。
そしてそれは、国語的な能力そのものです。
ですので、「数学が苦手だから国語を選ぶ」というのは、本来は間違っているのです。
数学が本当に苦手であれば、国語も本来はできないはずなのです。
その逆で、国語的な力が弱い人は、本来の意味で数学が得意になることはありえません。
「左脳と右脳」についても同じようなことが言えます。
数学には当然「左脳」的なロジックは欠かせませんが、それと同じくらい、いわゆる「右脳」的なイメージ力や推測する力というのも重要になってきます。
幾何(図形)はまさしく空間やイメージの世界ですし、すべて数式や言葉で書かれた数学であっても、論証を先に進めていくうえで、イメージや推測は重要です。
(単純な公式を当てはめるだけの問題や、パターンで解ける問題は、本来の意味での「数学」とはいえないので、ここでは考慮していません)
つまり、何が言いたいのかというと、
「数学が苦手だから文系」とか「右脳人間だから数学は無関係」ということではなく、知的生産を目指すすべての人にとって、数学的な思考や取り組みは欠かすことはできない、というのが私の考えです。
もっと言うなら、「文系人間」という分類の仕方はナンセンスだし、「右脳派・左脳派」ということと数学の得意・不得意は全然無関係です。
例が極端ですが、かのレオナルド・ダ・ビンチは、芸術家として大成をおさめた一方、科学分野でも数々の業績を残しました。
数学から「逃げる」のではなく(数学から逃げたくなる理由も理解できます。それについては、また別の機会で…)、勇気を出して数学のエッセンスを探ろうとする姿勢が大切だと思います。
そして、数学は何も中学生・高校生だけのものではありません。
日々数学を感じる機会が少なかったとしても、数学的素養は必ず実生活やビジネスに活きてくるというのが私の考えでありスタンスです。
じゃあ、そうすれば数学が身近になり、あわよくば好きになれるのか?
それを、このブログで追及していきたいと考えています。
ブログ【しあわせになる数学】始めました
はじめまして。
「可能性を広げる数学」の鈴木伸介です。
メインの仕事は、医学部受験生に数学を教える仕事をしているのですが、
ひとりで会社を経営していることもあり、様々な場で社会人や経営者の方とお話しする機会も多くあります。
その中で、私が数学を教える仕事をしていることを言うと、ほとんどの場合、次のような言葉が返ってきます。
「数学って聞くだけで、私には全然関係ないことのように思えます…(笑)。」
「数学は早くからつまずいてしまって、早々に文系に行きました(汗)。」
「小学校の算数までは得意だったんですが、中2ぐらいからだんだんわからなくなっちゃいました…。」
その一方で、だいたい5人に1人ぐらいの割合で、次のような方もいらっしゃいます。
「数学は得意だったんですが、もうずいぶんと離れちゃってますねー。」
ただ、数学に対する捉え方は様々ではありつつ、皆さんの思いは似ているように感じるのです。
それは、、、
「もっと数学をちゃんとやっておけば良かったと、今思います。」
「大人になって、たまに数学の知識が必要になるときがあります。」
「もしできるなら、もう一度数学を学び直してみたいと考えています。」
そう、「数学をやり直したい」「今からでも数学を勉強したい」という声は結構あったのです。
私の想像以上に。
それが私が「おとな数学」の活動を始めようと思ったきっかけです。
2018年の6月から、【おとなのENJOY!数学クラブ】を定期開催しています。
これは、「おとなが集まって数学の問題を解いて楽しもう!」というイベントです。
都内で、だいたい月1回のペースで開催しています。
また、2019年2月には、すばる舎より『もう一度解いてみる 入試数学』という本を出版させていただきました。
題材はバリバリの大学入試問題なのですが、数学の予備知識がほとんどない方でもパズル的に数学を楽しめるように工夫して書いた本です。
おかげ様で、全国の大型書店に平積みしていただき、好評をいただいております。
このブログでは、【しあわせになる数学】と題し、
とかく忌み嫌われがちな数学を、なるべく身近に感じてもらえるように、私が数学に関して思うところをしたためていきたいと考えています。
ぜひ気軽に楽しんでいただけたらと思います。