「しあわせになる数学」とは…

当ブログのタイトルは、【しあわせになる数学】です。

本当に数学は人を「しあわせ」にしてくれるのか?

たぶん、答えはYESです。

 

「たぶん」というのは、「数学」と「しあわせ」の直接的なつながりの根拠が、まだ私の中で明確に確立されていないからです。

もしかしたら、いつまで経っても見つからないかもしれない。

でもその探す過程は、間違いなく価値のあるものになるだろう、という確信はあります。

 

このブログは、ある意味その壮大な実験でもあるわけです。

まだ途上です。というか、本格的なスタートは、今始まったばかりです。

数学を仕事にしているひとりとして、自分の仕事道具で人のしあわせを実現できるのなら、これ以上の喜びがどこにあるというのでしょう?

 

 

そして、先にも少し触れた通り、それは可能だと思っています。

 

人間は、思考することで文化を発展させてきました。そして、豊かな世界を築き上げてきました。

思考自体が数学そのものです。数学とは、論理の積み重ねで構築された体系のことです。

 

また数学は思考という世界だけに留まらず、実際に数々の文明の利器を、目に見える形で生み出してきました。数学とは、考えることであり、実現させることです。

そして、AIに代表されるように、今後数学の重要性はますます高まっていくでしょう。

 

ここでひとつの大きな壁に当たります。

文明の発展や化学技術の進歩によって実現されたこの世界は、本当に我々にとって「しあわせ」なものであるのかどうか?

という点です。

 

これは難しい問題です。

産業の発展によって、環境は侵されてきました。

資本主義や自由経済は、格差社会を生みました。

科学技術により、戦争の破壊性はより強大になっています。

 

もしかしたら、文明などない原始の世界の方が「しあわせ」だったのではないか?

そういう疑問が湧き上がってくるのも自然です。

 

 

ただそんなふうに考えてしまっては、議論に収拾がつかなくなるので、ここでは前提を設定したいと思います。

 

そもそもの混乱の原因は、人によって「しあわせ」の定義が違うことです。

最新技術に囲まれた刺激たっぷりの世界を「しあわせ」と呼ぶ人もいれば、自然に囲まれたのどかな自給自足の生活を「しあわせ」と呼ぶ人もいるわけで、この2人が「しあわせ」について語っても(それはそれで興味深いことではありますが)着地点は見えなさそうです。

つまり、人によって「しあわせ」の捉え方は千差万別なわけです。

 

そこで、このブログにとっての「しあわせ」を定義しないことには、「数学」で「しあわせ」になれるかどうかの話を進めることができません。

当たり前の話です。ゴールがあいまいなのに、そこに向かうことはできません。

 

 

というわけで、ここでは「しあわせ」を、次のように定義したいと思います。

【自分が望む自分自身や世界を実現できている状態】

 

ここで初めて、このブログのテーマ「しあわせになる数学」の方向性が決まります。

それはつまり、「数学によって、自分が望む自分自身や世界を実現する」ことです。

そして、普段数学をしている端くれとして、それは可能である、というのが私の仮説です。

そして、その探求の過程が、このブログだというわけです。

 

私自身も、今後のこのブログの発展がどうなるのか楽しみです。

ぜひご一緒しましょう。